ガラスの仮面SS【梅静039】 第2章 縮まらない距離 (19) 1984年冬

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翌朝早く退院をして、そのまま稽古に向かうつもりだったマヤは水城の静止を受け、一日アパートでごろごろして過ごした。稽古は行きたかったけれど、確かに食欲もあまりなく、ここはあえて休んで正解だったと思った。沖縄の写真を見れば気分も落ち着くかな、と、手に取ってみると、つい先日のことがずい分前のことのように思い起こされた。そして、また考えてみたり、写真を見たりを繰り返しているうちに、早く寝てしまったようだった。翌朝は早めの時間に目が覚めた。その時、自分でも考えもしなかったけれど、まず自分の腹部に手をあてていた。

「ここにいたんだね…。」

まるで空虚のような気がして、涙が流れた。しかし、不思議な気持ちも同時に起きていた。

「あの時は、本当に存在していたんだ。私は、速水さんと一つになって、そして、次の新しい命まで宿すことができたんだ…。」

まちがいなく根拠のない自信でしかないだろう。もう生理が始まって10年近くになるから、その意味も、つらさもわかっているし、妊娠がそれほどすぐに訪れるものではないということも知っている。

だから、命を宿すことがまたあるとは限らないことも知っている。しかし、目が覚めた時のマヤにはなぜか喪失感と充実感が同居していた。

ただ、今のマヤにとって、その感情がプラスであるかどうか、マヤ自身は理解することはできなかった。しばしの間、ふたつの感情に少々困惑しながら、あえて大きな声を出してみた。

「これから試演まで全力疾走!!!」

マヤの声は古いアパートに響き渡り、驚いた麗がマヤの部屋にやってきた。

「おはよう。マヤ。今の何?」

「おはよう。麗。気合いよ、気合い入れたの。自分に。いろいろありがとう。ほんと麗のおかげ。でももうひとつお願いがあるんだけれど、いいかな?」

「何?改まって?」

「気合いを入れるために。そうね。本当はびんた一発でもしてもらいたいのだけれど、麗が本気だしたら、あとが残りそうだから…。まず、背中を叩いて、そのあとに、一緒に、声だししてくれる?」

「え?でも、いいよ?!じゃ、起きて。」

マヤは起き上がって、麗に背を向けて「お願い!」と言った。

ビシーーーーン!!

麗は両手で小さなマヤの背中を叩いた。

「ひゅー。いたーい。効くわ―。やっぱり麗さすが!!」

「それで、声だすの?何を言えばいいかな?」

「うーん。紅天女~、じゃ、しまりがないから~。そうだ!」

「そうだ?なに?」

「らーめん食べるぞ!!」

「は?らーめん?」

「うん。試演が終わったら、思いっきりらーめん食べたい。だから、それまでの目標で。いい?」

「オッケー。いいよ。マヤらしいよ。」

「じゃ、3、2、1、せーの!」

「らーめん食べるぞ!!」

二人して大声で叫んで、言い終わったあとはげらげら笑った。

「麗。ありがとう。今日から、稽古づけで、試演まで駆け抜ける。」

「うん。マヤ。背中を押すよ。ただ。しつこいかもしれないし、分かっているだろうけれど…。もし、出血があったら、すぐにいったん休憩だよ。それで自分でしっかり様子見るんだよ。いいね。何かあったら、病院に電話ね。10円玉とテレフォンカードはちゃんと持ってね。」

「うん。わかった。」

「それで、試演が終わるまでは寄り道しないで帰っておいで。冴子さんが、負担が、身体きついならば、ホテルに泊まるよう手配するから、とも言ってるからね。」

「冴子さん?」

「あっ。水城さんだよ。水城冴子さん。冴子さんって呼んでいるんだ。私も一緒に滞在して、マヤの身体の負担が少なくて済むようにと言ってた。」

「出世払いが大変そう。私、いいのかな、そんなにしてもらって。」

「約束しただろう?いいんだよ。それで、朝ごはん、食べる?」

「うん。ちょっとストレッチだけしてから少しだけ食べる。」

「そう言うと思った。用意してあるから。」

麗は、本当に良くしてくれる。気が利くし。カッコイイし。でも、なんで、冴子さんなんだろう?確かに冴子さんだけれど、今まで一度もそんな風に呼んだことないな、とマヤはちょっとだけ気にしながらゆっくりとストレッチをした。

電車の混雑を避け、稽古場にたどりついたマヤはにこにこした桜小路に迎え受けられた。

「マヤちゃん、おつかれさま。具合は大丈夫?」

「桜小路くん。ありがとう。ごめんね。一日お休みいただいちゃった…。」

「具合よくなったんだね。熱なんだってね。この時期は風邪にお互い注意しなきゃね。マヤちゃんは気候がちがうところから来たし、移動もあったから疲れたんじゃない?」

「うん…。そうだと思う…。ありがとう。今日から試演まで全速力で駆け抜ける。」

「うん。がんばろう!!そうそう、すごいよ、マヤちゃん。来てるよ。ほら。」

と言って、桜小路が指さした場所を見たら、マヤも思わず声をあげてしまった。

「あっ。ああ。紫のバラ…。」

「うん。すごいね。昨日届いたんだよ。マヤちゃん、昨日お休みだったから。余計に今日は良い香りだよ。」

桜小路は途切れなく続ける。

「僕、本当は、うん、実を言うとね、ずっと、紫のバラの存在を嫉妬していたんだよ。そういうファンがいることも。そして、マヤちゃんがうっとりとして紫のバラを見つめることも。でも…。」

「それは間違いだって、やっと気づいたよ。紫のバラがマヤちゃんの支えであることには変わらない。嫉妬しても仕方ない。それよりも僕は一真としてマヤちゃんを支えることができる。だから嫉妬はもうしない。一緒に紫のバラを喜びたいくらいだよ。」

「桜小路くん…。」

黒沼がそこに割って入った。

「おい。北島。残りはビシビシいくぞ。それについさっき、別の贈り物も届いたぞ。お前、すごい人気者だな。人気負けするなよ。ハハハ。30分後から稽古始めるからな。これ今渡しておくぞ。」

と黒沼はマヤに2つの小包を渡した。

ひとつは、紫のバラの人からであり、もう一つは、沖縄・鈴木裕と差出人に書かれているものだった。

鈴木からの小包を開けてみると、千羽鶴、写真つきのカード、カセットテープが入っていた。写真は鈴木とスクール生のみんなが写っていた。カードには、

「身体に気を付けて。いつでもこちらに戻ってきてください。」
「ひろみちゃんが、北島マヤさんだったなんて。夢みたい。」
「紅天女ひろみ。ファイト。」
「少しは音痴、なおったかな?ひろみちゃん、がんばれ!!」
「また、みんなでダンスしたいね。ひろみちゃん、がんばれ♪」

と書かれていた。寄せ書きだ。とうとう、あのダンス下手な佐藤ひろみが北島マヤだったことがバレてしまったか、とちょっと気恥ずかしい気もした。時間があったので、テープをカセットレコーダーで再生してみたら、流れてきたのは、私の歌だった。すごい音痴。はずかしい笑。すぐにストップしたけれど、近くにいて、音が聞こえてしまった人はみな笑いをこらえて肩を震わせていた。

「もう!やだっ!」

と真っ赤な顔をしながら、マヤはもうひとつの小包を開けた。そこには、ひとつの封筒が入っていた。封筒の中には、もうひとつ封筒が入っており、その表面には

「ご宿泊券」

と書かれていた。中をあけてみると、

「身体を第一に試演の日を迎えてください。試演の日、当日まで、こちらのホテルでゆっくり過ごされてください。雑念をすべて捨て、演技に集中できますように。お友達の分のお部屋もご用意してあります。 あなたのファンより」

と書かれていた。朝、麗が言っていたこととはまた違うけれど、紫のバラの人は、やはり私を応援してくれている。お気持ちに応えるためにもゆっくりとさせてもらおう。甘えよう。

麗、まだいるかな?と思って急いで電話をしてみた。ちょうど出かける前に捕まえることができ、ホテルのことを伝えることもできた。

「すごいね。マヤ。わかった。私も一緒に行くよ。荷物は私が必要なものを持って、そっちに行くから。稽古に集中ね。」

と麗は電話を切った。

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