「あたしも、本当の気持ちでは、彼に妊娠したことも、そしてだめになったこともすぐ言いたかった。でも言えなかった。ううん、言いたくなかった…。言えないのは彼に迷惑をかけたくなかったから、だと、思う…。でも、それより強い気持ちで言いたくなかった…。それは、何よりも、紅天女に集中したかったから。」
「今もそうだけれど、あたしにとって、比べられない…。けれど、どちらかを選べと言われたら…。あたしは、紅天女を選ぶ。お芝居をすること、舞台に立つこと、芸能を続けること。そちらの方をあたしは選ぶ。彼じゃない。
紅天女、あたしが選ばれたけれど、復刻としてまず演じるのは亜弓さん。そこも疑問がないと言ったらウソになる。もちろん、育てて残す仕事のほうが大切だということはわかるの…。でも、なんだか…。もやもやはある。
そのもやもや、誰にも話していない。今まで一度も言葉にしていない。話して一時的にすっきりしても仕方ないから。紅天女を残すことの方が大切。月影先生が色々なものから守ってきた時も大変そうだったから、あたしは、紅天女を残すほうに賭ける。でもこの想いは誰にも話していない。
うん、母さん、だから、あたし、母さんにだけは本当の気持ちを今話したい。今だけ。聞いて。母さんに聞いてほしい。あたしも言葉にしたい。取り柄がないだけじゃないあたしを知ってほしい。今、母さんに話したら、絶対誰にも言わない。
母さんは騙されたままこの世を去った。本当のことを知らないまま。
悲しいし、悔しい…。あたしも崩れて、壊れて…。人を恨んだ。強く…。
でも、恨みからは何も生まれなかった。心が硬くなっただけ。
だから、もうあたしは誰かを恨みたくない。恨みはあたしの力にならない。
ねぇ、母さん。あたし、これで合ってるよね?取り柄もあるよね?がんばってきてるよね?母さんが生きていたら、きっと今、母さんが生きていたなら、あたしを自慢してくれるよね?母さんもラクができて、一緒に母さんが作ったご飯を食べて、いちごもお腹いっぱい食べて、笑顔のある暮らしが出来ていたよね…。
あたし、母さんにラクをさせてあげられないままになったけれど、きっと、今やっていることを一生懸命やったら、母さんが生きていたら、母さんもゆったりとできているよね。あたし、だから、そこを見つめてこれからも集中していく。それで合っているよね?」
一気に言葉にしてマヤは泣き崩れた。しばらく嗚咽に近い時間があったが、涙を拭いて、墓前にそなえたいちごを食べながらまた話を始めた。
「恨んだ人を愛するなんて不思議…。きっとつながりが強いのかなぁ。でもそこだけに流されたくないの。あたしはあたしでいたい。何かがあって自分を失うのはいや。自分が自分であるためには何でもする。目先にとらわれない。誰かの所為にもしない。その代り人も傷つけない。決めたの。」
流れる涙をぬぐわずに、マヤは手をぎゅっと握った。いつになく険しく、そして、意思の強さを示す気高さもある表情をしていた。そしてくいっと顎をあげ、もう一度空を見つめて、また春のお墓に視線を合わせた。
「この身を傷つけることが どれほど大きな罪かわからぬか?
ましてや ひとの身を傷つけることが どれほど深い罪かわからぬか?」
すっと表情を変え、阿古夜になり切って言ったセリフは迫力に満ちていた。
「母さん、これは紅天女のセリフなの。あたし、このセリフも好き。自分も、そして、周りの誰も傷つけない。そのためには、自分も強くなければいけない。そして、誰かを恨んだり、愛しすぎたり、今はしたくない。ううん、愛することは止められなくても振り回されたくないの。」
「ねぇ、母さん、あたし、土曜からアメリカ行くよ。アメリカなんて遠い遠い向こうだと思っていた。地図でしか見たことがない場所。オリンピックもあるから、そこでドラマ撮るの。前に迷惑をかけた人たちに謝ってからテレビのお仕事は再スタートするの。
でもね、あたしを陥れた人がいたの。その所為で、迷惑をかけたの。でも迷惑をかけたのは北島マヤ。
あたしを陥れた人、その後、もう会っていないけれど…。その人が悪いのはそこだけれど、そこを恨んでいてばかりだと芸能のお仕事は進まない。その人今どこで何をしているかわからないし。だから、納得は行かなくてもその気持ちは隠す。だから、まず謝るの。頭をちゃんと下げて心を尽くして許してもらう。陥れた人は許せないけれど、我慢できないほどではないし、もうちょっと前のことだし、今、あたしは少しずつ自信を持ってお芝居をしていくから、きっと大丈夫。それよりも、紅天女のためにも、テレビのお仕事をしっかりやりたい。それで、合っているよね。母さん…。」
そこに麗が戻ってきて声をかけた。
「マヤ。いまの阿古夜、いいねぇ。向こうからも聞こえたよ。だから、お母さんにもきっと届いているよ。いいねぇ。声も通るからちょっと離れていてもはっきり聞き取れる。イイね。ブレがない。」
「あ、麗。お待たせしたね。ありがとう。聞こえちゃった?フフフ。母さんにも紅天女をちょっと体験してもらおうと思って。届いたかな?」
「うん。今、日本で一番注目されている女優だからね、マヤは。さあ、私もマヤのお母さんにお参りさせてもらおうかな。」
「ありがとう、麗。一緒に手をあわせて、それで帰ろう。」
「マヤのお母さん。マヤのマネージャーみたいなことをさせてもらうことになりました。一生懸命マヤを守って、そして、マヤの仕事が成功するように、マヤが満足いくような女優になれるように、そして、紅天女が続いていくようにがんばります。見守っていてくださいね。」
「麗、ありがとう…。そんなふうに思っていてくれたなんて…。」
「おかげで私もいろいろ勉強させてもらえてるし、大切だと思う人にも出会えた…。」
「麗…。」
「お母さん、マヤと一緒にアメリカ行ってきます。無事過ごせるように見守っていてくださいね。」
「行ってきます。母さん。あたし、集中していくからね。母さんが、天国で自慢できる娘になるからね。見ていてね。」
二入は手を合わせて、お墓に向かって深くお辞儀をして墓地を後にした。
「あ、あれ?これもお供えするつもりだったのじゃないの?」
麗はマヤが持っている紙袋を指して言った。駅前のデパートで買った菓子だった。
「ああ、これ?うーん、もし、時間あるなら、寄りたいところがあるの。前、住んでいたところ。万福軒、そこで母さんとあたしは暮らしたし、母さんがいなくなったことも杉子さんが伝えに来てくれたのにお礼も言っていないままだったから…。」
「あ、それはいいね。そう言えば冴子さんも言ってた。横浜の万福軒のことは気にしていた。ほら、有名人になると急に知り合いだ、親戚だと言ってくる人がいるって。そのあたりも私がしっかりしておくようにと言われた。さすがだね、冴子さん。」
「うん。あたしも気を付けるね。普通にお店のお客さんのつもりで行って、食べた後にあいさつとお礼をして帰ろうと思うの。」
「それいいね。そうしよう。場所覚えている?」
「うん。覚えている。駅からならわかる。ありがとう。」
万福軒の場所はすぐにわかった。しかし、建物ががらっと変っていた。3階建てに建て替えられていて、1階に店舗があり、上は住居のようだった。
「いらっしゃ~い。30分で昼休みはいっちゃいますけど、よかったらどうぞ~。」
店の中もきれいになっていた。時間帯の所為もあって、お客さんは一人だけだった。
「あ、あ、あれ、マヤちゃん?マヤちゃんだよね?」