ガラスの仮面SS【梅静021】 第2章 縮まらない距離 (1) 1984年冬

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新年を迎え、平良自身がこのひと月を振り返ってみるとあまりに目まぐるしく、自分の今までの人生がなにか虚像であったのではないかと思うほどであった。

今の自分は平良裕なのか、鈴木裕なのか、あるいはDスクールのスクール長なのか、それとも紅天女の一真に片足をつっこんでいるのか?そして、子供の父親なのか?一人何役もあるようだ。

洋子のお腹にいる子供は沖縄に来てから体調も良くすくすくと育ってお腹も目立つようになってきている。

「きっと男の子だと思うわ。」

と嬉しそうにそして穏やかに洋子がほほ笑む日が来るなんてひと月前では考えられなかった。自分自身は明らかに罪を犯して、もう人生の先はないのではないかと思っていた。しかし、あのシアターXを不本意ながら使えなくした時から自分の人生は動き始めた。迷惑をかけた自分の人生が好転していくなんて許されるのであろうか?しかし、これが最後のチャンスであり、なんとかそれを手にしたかったし、しなければならなかった。そうして人生は変わり始め、ひと月たって、今の暮らしとなっているけれど、まだ安心はできない。

自分自身の怠け癖もある。北島さんと一緒にいたひと月は本当に自分の中の「芸能」に関する魂を揺さぶり起こしてくれた。しかし、彼女はもう東京に戻ってしまった。スクール生たちも「佐藤ひろみ」を慕って、多くを学んでいたけれど、これから自分が引っ張ってやっていけるのだろうか?

そして、小野寺先生は今でも夢に見る程恐ろしい。小野寺さんがいつ今の自分を探し出すかわからない。そして過去の自分の弱みをあらいざらい誰かに伝えたり、それによってまた同じことになったらどうしようと怖くなる。また流されてしまうのではないかと思う。しかし、ここで流されてしまったらもう道はない。

わかっているけれど、その恐怖に勝てない時もある。思わず負けそうになり、このまま逃げてしまうほうが、ラクではないかと思った時もある。逃げ出すために、いくばくかの現金をポケットに詰め込んでそれで身ひとつでどこかに行ってしまおうとしたこともあった。

その度に思いとどまることができたのは、北島さんの阿古夜との読み合わせの風景が頭をよぎったからだ。正直言うと、北島さん自身は女性としては好みのタイプでもないし、まったく魅力を感じることもなかったが、阿古夜になった時は別だった。阿古夜の仮面があるのかないのかわからないくらい阿古夜そのもので、一真になっている自分に向けられる言葉の一つ一つや、表情が何か眠っていたものを呼び起こした。読み合わせの瞬間は阿古夜に恋をしていた。そして、一生懸命になれた。その読み合わせが終わると、何ともいえない脱力感があり、まるで自分の汚れた人生が少しずつ浄化されていくようだった。

そんな体験をしたら、ここで踏ん張るしかない。他に道はない。認められるまでずっと「鈴木裕」としてここで骨を埋めるつもりで頑張るほかないと素直に思うことができた。

平良は自分自身に一生懸命すぎて、余裕もなく、唯一心の隙間に入ってきたのは小野寺に対しての恐怖だけであった。小野寺を恐ることはあったけれど、そのきっかけであった亜弓のことはすっかり忘却していた。いやいやながらも、小野寺を言うことをきいたのは亜弓の名前がでてきたからであったのに。

マヤにとって「佐藤ひろみ」であったひと月は、阿古夜になるための外堀を埋める期間であったと麗は感じ取った。マヤ自身は気づいていないかもしれないけれどね。

直接的に阿古夜の極めるための何かをしたわけではない。むしろ、黒沼のそばで稽古を繰り返すほうが阿古夜を完成させるためには役だったかもしれない。しかし、ひと月をそばで見ていた麗からするとマヤの成長と、自然とついてきた自信は今まで目にしたもののないものだった。

英会話のレッスンは基礎的な会話をすることではなく、簡単な単語をいくつか感情をこめて声に出すことから始まった。一日のレッスンが、花、星、風、水、月、という簡単な単語の綴りをホワイトボードに書きだし、それを、いろいろな感情をこめて声に出してみるだけだった。

なんのこっちゃ?というレッスンだったけれど、不思議と1週間もしないうちから、英語のが全くできないマヤも講師の話す英語を理解するようになっていった。言語そのものを介するコミュニケーションではなく、その言語が発せられる様子をくみ取ることで、相手の気持ちをつかんでいったようだ。

そのあたりから、普段の生活でも相手の様子や声の感じを上手に掴み取るようになり、また、相手に伝えるときも言葉だけでなく、目でも話すようになっていった。

ダンスも歌も、もともと上手ではないのに、音楽にノって気配を合わせながら表現できるようになっていった。夕方からくるレッスン生にははじめ何も技巧がないことを笑われていたけれど、決して乱すことはなく、回数を重ねるごとに「ひろみちゃん」の存在は違和感もなくなっていった。最後は振付まで一緒にやるようになっていた。休み時間には、郷土の踊りや歌を教えてもらうくらい溶け込んでいた。

麗はマヤの変わっていく様子を観察することがとても楽しかった。今まで何度となくマヤの演技には驚かされ圧倒されてきたが、マヤの成長の様子を、それも演技そのものに直接関係ない部分から成長していく様子は観察していて楽しくもあり勉強にもなった。人を変えるために、こういう導き方があるのかと新鮮であった。

ひと月を終え、さあ東京に戻ろうと言う時には、マヤ、鈴木、そして、沖縄Dスクールの今後を見据えてこの配置をしたであろう大都芸能を心から尊敬した。人を育てるための体制を瞬時に用意できることも脅威だった。単なる金儲けのためだけではないと、大都に関しての印象が変わったことも意識し、機会を与えられたことを心底感謝した。

マヤは言われたことをこなすことで精いっぱいで、麗が感じていた成果もわからないままであった。ただ、鈴木と読み合わせをしたことで、自分が阿古夜として一真が「こうあってくれたら」という欲がでてきていることと、今まで触れ合ったことのない沖縄の自然に時折触れることができ阿古夜の世界観がまだまだ奥が深いと自覚できたことは収穫であったと思っていた。

自分の中にある阿古夜は一真と愛し愛されひとつになりたいと願っている。その愛は深い所での愛で、言葉だけでも身体だけでもなく、そして、精神だけでもなく、その全てであるということがわかってきていた。自分が舞台の上で紅天女である時の一真は桜小路くんであるけれど、一人の人間としては、真澄を思っていた。とくに自然をめぐっていると、あの夜の翌朝、二人で浜辺を歩いたことを重ねることが多かった。思わずあの時感じた体の芯に走ったアツい感覚がよみがえり一人で真っ赤になることも何回かあったくらいだ。

しかし、舞台の上での一真は桜小路くんだ。それはわかっている。舞台の上で、阿古夜になりたいのであるから、ここはけじめをつけて舞台に臨まなければならない。そうしないと、紅天女も成立しない。そして、桜小路くんを壊してしまうのではないかとも感じた。そこまではっきりと意識できたことだけでもマヤは沖縄の収穫はあったのではないかと意識していた。

「少しは大人になれたかな?」と独り言を言うと、真澄を思い出し、「この今の状態を速水さんに見てもらいたい」と声に出してみた。でもそれは叶わない。きっと、彼は紫織さんといるはず。この想いはきっとしばらくはそれは叶わない。でも自分は進まなければならない。そう自分に言い聞かせながら東京に向けてのフライトに搭乗した。

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