ガラスの仮面SS【梅静038】 第2章 縮まらない距離 (18) 1984年冬

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翌朝、社に向かう途中、真澄は、いろいろと思い起こしていた。

紫織との入籍をし、発表してからかれこれひと月がたったが、真澄はまだ紫織とベッドをともにしていない。正確にいうならば、鷹宮の紫織の部屋で一緒に寝るときもあるが、横で寝るだけであり、男女の関係にはなっていない。

身体に無理がかからないように、という医師の忠告もあるが、だからと言って、このままの状態で過ごすわけにはいかないということは真澄もわかってはいる。しかし、どうしてもその気にならない。自分の機能を疑うレベルで何も反応ができなかった。

紫織は、真澄の「今が正念場で忙しい。眠れる時は睡眠をとりたい。」という言葉を信じていたし、確かに、まだ傷跡が残っている身体を真澄に見せることはためらいがあった。しかし、同時に、真澄の心がどこか他にあるのだろうという疑念も隠せなかった。

「これからひと月くらいはこちらに戻ってくることが難しいと思います。時間に関係なく仕事を進めていかないといけません。一日一回でも紫織さんのお顔を見たいので、努力しますが、出来ない時もあると思います。滝川さんの言うことを聞いて、ゆっくりしていてください。何かあったら、水城くんに連絡をしてください。大丈夫ですね?紫織さん。」

と真澄は言った。自分でも事務的であると思ったけれど、仕方ない。紫織は、

「真澄さま、あまりご無理なさらないでくださいね。お食事もちゃんとなさってね。」

と返答した。そして、笑顔で真澄を送り出した。

一人になると紫織はラフな服に着替えた。そして、また、真澄の持ち物を探り始めた。

「何もない。何も痕跡がない。そして大切なものは何もない。服が多少あるだけ。伊豆の別荘の鍵もない。」

紫織は、別荘の合鍵を作っておかなかったことを後悔した。あそこに本当の真澄の心があるにちがいないことはわかっている。今だって、実は毎日、伊豆に行っているのかもしれない。疑い出したらきりはないけれど、その想いは止まらない。そして、真澄が今まで心からの笑顔を自分に向けていないことも気づいていた。

「紅天女とあの子の所為だわ。結婚しても何も変わっていない。真澄さまの心はここにないまま。どうにかしてこちらに向けさせなければ…。」

そこに使用人の滝川がやってきた。

「あら。お嬢様、めずらしい。簡単なお召し物でいらっしゃいますね。今日はお顔色もよいよいですね。」

「お散歩に行きたいのだけれど良いかしら?」

「ええ、近所ならば。ご一緒いたします。」

誘われるまま紫織は散歩に出た。邸宅のある渋谷の高級住宅地から少し歩くと繁華街になる。街を歩く女性がみなマヤに見えて、紫織はぎょっとした。

「あの子が街にあふれている。真澄さまのまわりにもきっといるに違いないわ。」

ただ、これを言葉にすると滝川にまた警戒されてしまうので、ぐっと飲み込んだ。どうにかしなければならない。どうにかしなければ。心の中で、紫織はその言葉を繰り返していた。

真澄が、社に着くと、水城がいつになく厳しい顔で真澄を迎えた。

「おはようございます。」

「ああ、おはよう。昨日は月影さんが会長に会って、見事に保存委員会への出資を勝ち取ったよ。」

「そうなっていくことはおわかりだったのでしょう?社長は。」

「うん、まあ。会長が持っている紅天女に関するものも全部吐き出させることができた。月影さんは、あれは、ぜいぜい言っているようで、かなりの策士だ。」

「そうですか。思う通りに進められて、一安心ですわね。」

「そうだな。ああ、保存委員会と会長が保有している紅天女関連のものを収納展示するために、ひとつ、場所を探すことになった。会長は、根津か乃木坂を考えている。根津でいいのではないかと思うがどうだろう?」

「あら、委員会の建物まで提供なさるんですか。会長も入れ込み方がちがいますわね。」

「月影さんに会えるとは思っても見なくて上機嫌だった。まああの人のことだから、どれだけ上機嫌になったとしても損得勘定はきちんとしているはずだろうけれど。ただ、あの二人の因縁を考えると、ちょっとしたことでどう転ぶかわからないから、早めに話を進めてカタチ作りをしたい。根津を押えられるかな。」

「契約に向けて動くということですね。最終確認いたします。」

「頼むよ。それが今一番にしなければならないことだな。あとは、オーシャン・シアターの警備はしっかりできているか、その再確認も頼む。舞台稽古、試演、決定まで問題なく駆け抜けなければならない。」

「わかりました。速水社長、私からもひとつありますがよろしいですか?」

「うん、なんだ?手短に頼む。」

「手短…。そうできればいいですけれど。そうできるかしら?」

「なんだ?含みがあるね。」

「北島マヤ。昨日、会見のあと、亜弓さんと会って親交を深めたようです。ライバルとはいえ、お互いにしかわからない景色を見ている物同士の親交でしょう。生まれも育ちも全然異なるのに不思議ですわね。紅天女がつなぐ友情。」

「それはわかるよ。会長と月影さんもそうだからね。なんとも言えないご縁だ。それが言いたいことじゃないだろう?それで?手短に頼むと言ったろう?本題は?」

「そうですか。では、単刀直入に。北島マヤ、昨晩、倒れました。流産でした。」

「えぉ、うっ、なに??なんだって??」

と言いながらドアに向かって行こうとする真澄に向かって水城は続ける。

「誰にも言わないでくれ、と。麗さんと私がいたのですが、それ以外は誰にも言わないでくれと。」

水城はやや意地悪な視線を向けながら続ける。

「社長はすぐに表情に出ますわね。マヤが、誰にも言わないでくれと言ったんです。でも私は社長にはお伝えします。マヤは今日の稽古も行くと言っていましたが、麗さんに頼んで、あえて、ゆっくり休むようにしました。熱が出たことにしました。黒沼さんには連絡済みです。そして、一日休んで、明日から、試演まで駆け抜けると思いますわ。」

「くっ…」

「取り乱すことなく、ひとつ大きく深呼吸して、大粒の涙を流しましたよ。それで、誰にも知られたくないと。あの子、ずい分大人になったものです。自分の気持ちに正直に、そして、相手を大切に思っているのでしょうね。そのお相手はどうでしょうね?あの子を大切に思っているのでしょうか?守ってあげているのでしょうか?」

「今日のスケジュール、調整できるか?」

「何をおっしゃっているんですか。誰にも知られたくないと、やっとの想いで言ったんです。マヤは。私はマヤを守りたいんです。だから今伝えているのです。現実に起こっていることを社長が知らないまま、後から知ると、またマヤに強い想いが向かいますよね。今、あの子も耐えているのだから、同じ苦しみを負ってください。スケジュールはいっぱいです。調整できません。できてもいたしません。試演が終わるまでは直接顔を合わせることも避けてください。ぎりぎりで耐えているマヤを壊さないでください。」

真澄はこぶしを振り上げデスクを叩いた。

「それで、お気持ちがすみますか?真澄さま。背負えない重荷は来ません。耐えて、跳ね返して、そして、守る人をきちんと守ってください。もちろん、紫織さんが一番であることが今は揺るぎようのない事実ですけれど。言うまでもありませんね。しかし、あえて、今日は言わせてもらいます。本当に欲しいものは何でしょうか?」

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