山岸理事長が、改めて、小野寺と黒沼に伝えたことはこれらのことだった。
- シアターXはもう使えないこと。舞台稽古でも、試演でもシアターXは使わないことは確実に決定していること。
- 代替の場所、時期などは1週間以内に決定するので、今日から1週間は各々公式に練習を休止してほしいということ。
- おおまかな時期としては舞台稽古を1か月半後、試演をそこから2週間以内で予定していること。
- 役者に関するスケジュールの調整、アルバイトなどの休業に関する費用が発生するならば、協会に請求をあげてほしい、ということ。
- そして、紅天女の候補者2名に関しては、1か月それぞれ協会が指定する場所で役作りのための学びの時間を持ってほしいという月影さんからの指示があるので従ってほしいということ。
- 指示はそれぞれの女優に直接月影さんから連絡がいく。
- これらを受け入れて、紅天女がすみやかに決定し上演されるように協力してほしいということ。
ここでも小野寺は休暇ができたから家族サービスでもするかなと薄ら笑いを浮かべながらあっさり提案を受け、黒沼は山岸の提案に胡散臭さを感じていることを隠しきれず不平に満ちた返答をした。
「費用を持つって、それはありがたいけれど、そういう問題だけじゃないって言うことをお偉いさんも、月影さんもわかっているんだろうな?それに紅天女を1か月学ばせるというのはどういうことだ?今さらだろう?他の役者はどうするんだ?勝手ばかり言ってることをわかっているのかい?」
と毒気たっぷりに山岸に悪態をついてみたものの、山岸は受け流し、黒沼は山岸に対して一人だけ熱くなって悪態をついたことで後味が悪くなってしまった。
「なにか見えないところで力が働いているな。これはおかしい。条件としては悪くないが、見えない手が働いていて、まるでコマのように動かされている。その中で、俺たちは確固たる紅天女を作り上げていけるか。それが評価されるものになるのか…。考えてもわからないが何かひっかかる。」
その気持ちを黒沼は打ち消すことが出来なかった。
「もう決めたことだ。」
と自分に言い聞かせ、真澄は受話器を取った。
「はい。いろいろありましたが、紫織さんにあらためて結婚を申し込みました。そして、イエスと言っていただきました。なるべく早くそちらに居候させてもらおうと考えております。紫織さんの具合の事もありますから。はい…。はい…。そうです。はい、ただ、今は、ご存知のとおり、シアターの建設を今朝、記者発表しましたし、シアターXの件が、千載一遇のチャンスですから、ここ数日は、お顔を拝見することもままなりません。紫織さんにも伝えました。はい…。ええ、そこで、滝川さんにも念を押しましたが、紫織さんにはTVもラジオも新聞も、そして雑誌もすべて目の届かないところに置いて、隔離するようにしてください。私の仕事の様子などで、また紫織さんが心乱されても、お体に障りますし、伺ってなだめて差し上げることもできないので。その点はご配慮願います。紫織さんをよろしくお願いします。はい…。では…。失礼します。」
鷹宮会長と話終わったあともずっと何かを見つめて動くことができなかった真澄。でもこれも、自分で良かれと決めたことだ。マヤは悲しむだろう。あの大きな目に涙をためるだろう。しかし、心はわかってくれるはずだ。今、マヤを守るために、そして、マヤの女優としての成長のためにはこれしかない。
そこまで自分に言い聞かせた時、ちょうど、水城がドアをノックした。
「姫川親子がエントランスを通られたそうです。真澄さま、ご準備をお願いします。」
「いかがですか?亜弓さん」
「ええ、おかげさまでやっと紅天女がつかめてきたように感じています。舞台稽古も試演も延期になるのですわよね?とんだハプニングですこと…。しかし、気持ちを保ちながら、しっかりと演じて見せますわ。わたくし、どなたにも紅天女は譲るつもりはありませんわ。ふふふ。」
「それは何よりです。心が折れないことが一番です。しかし、延期はスケジュールが狂いましたね。しかし、おかげさまと言ってはなにですが、ダイト・オーシャン・シアターの景気づけにもなりますよ。誤解を恐れずに言うならば。月影先生も延期はおだやかに受け止めていらっしゃるようなので。ある意味、大都にとっては、災い転じて福となりそうですよ。ピンとこられているでしょうが、試演会場として、オーシャン・シアターを提供したいと思っていますからね。」
歌子は、口を挟まずに軽くうなずきながら真澄と亜弓の会話を聞いているだけだった。
「亜弓さん、おわかりでしょうが、大都は全力で最高の紅天女を望んでいます。これは父の願いでもあり、私の願いでもある。少しの邪魔も許さない。阻害要因があることは許せない。今回の事で、頓挫するなんてもってのほかです。亜弓さんにしても、北島マヤにしても最高の状態で紅天女を演じてほしい。大都が関われることならば最高ですが、仮に、関われないとしても、協力は惜しまない。」
「ええ。所属する会社がそうお考えということは存じ上げておりますし、それがなくてもわたくし個人としても同じ、いえ、それ以上の気持ちで紅天女と向かい合っています。」
「ですよね。それをうかがって安心しました。同じ方向を、そう同じ方向を見ているのですよね。」
「ええ。大きな方向は同じものを見ていると思っていますわ。同じように願っています。」
「では、オーシャン・シアターの件、自信を持って、山岸理事長と月影さんに打診してみたいと思います。大都の息がかかるようで、いやだ、とおっしゃらないですよね?」
「マヤが、どう思うか…。ただ、今はその選択肢がベストであると思いますわ。そして、マヤの紅天女への想いも同じはず…。黒沼さんもそうお感じになるのではないでしょうか?ママはどう思う?」
歌子を振り返りながら亜弓は微笑んでいた。この子は本当に見えないのかしら?と思うくらい視線の位置もぴったり合っている。
「私が、口出すことではないかと思うのですが…。一人の女優としては、紅天女を観てみたいという想いが強く、一人の母親としては、娘が紅天女を演じてくれるのは大きな夢でもあります。それが滞りなく進むことは歓迎です。そして、個人としては会社を信頼しています。」
歌子は落ち着いた様子で答えた。真澄は畳み込むように
「大都の総力で、試演に向けて頑張ります。安心しました。亜弓さんのことだから、北島マヤに対して、平等でありたいとお考えになって、オーシャン・シアターを良く思われないのではと一抹の不安がありました。よかった、ちょうどいい。あっ、ひとつ意見聞かせてください。椅子、観客が座る椅子ですが、どうしても決めあぐねています。これとこれなのですが、亜弓さんはどちらが良いと思いますか?これをご覧いただけますか?」
と言い、2枚の椅子の写真を亜弓に差し出した。真澄にしては珍しく不躾なほど亜弓の顔を凝視していた。
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