ガラスの仮面SS【梅静013】 第1章 もとめあう魂 (11) 1983年秋

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亜弓はひるむことなく、満面の笑みを浮かべ、


「あら、どうしましょう?拝見いたしますわ。」


と言い、真澄が差し出した2枚の紙を受けとった。


「これがオーシャン・シアターの観客席?速水社長はどこで悩まれているのかしら?珍しいわ。何事もすぐにお決めになるのに。」


と受け取った紙から目を離し、亜弓は真澄を見つめた。


「いや、コストは度外視しましてね。うん、より、梅の谷を体感してもらえるものが良いのではないかと思うのですが、決めあぐねていましてね。ちょうど良いから亜弓さんのご意見を伺いたくて。北島マヤには尋ねる機会はないですが、亜弓さんのほうが総合的に良い意見を言ってくれるような気がしますから。」


「光栄です。しかし、わたくしの意見だけですと…。ねぇ、ママ。そう思うわよね?」


歌子はなにも答えなかった。


「いや、時間がおしているので、参考意見としてうかがうまでです。公平であるかどうかに影響はしませんから。右側の黒い椅子と、そう、今左手の方に持っていらっしゃる、茶色の椅子。形が多少違いますからね。どちらが良いでしょうかね?」


真澄は歌子を全く気にせずに言い進める。歌子が、真澄に向かってやや眉間にしわを寄せて目くばせをしたことは、亜弓には気づかれていない。


「そうですわね。あえて言うならば、右側の黒い椅子のほうが、梅の里の夜の闇のお色に近い印象がありますわ。ねぇ、ママもそう思わない?」


歌子は深いため息をついた。


「亜弓、速水社長はご存知なのよ…。」


「え?何を言っているの、ママ?」


「あなたが、見えていないことをご存知なの。お写真は二枚ともネコの写真よ。椅子ではないわ…。今までの亜弓の視線の置き方や目配りは完璧だったけれど…。」


「た、試されたの?速水社長??」


「不躾かと思いましたが、先ほども申したでしょう?阻害要因は許さない、と。亜弓さん。あなたの今の目の状態で、あなたは紅天女を完璧に演じることができますか?」


「できますとも、もちろん、できますともっ。」


「亜弓さん、あなたの共演者はどうですか?隠し通すこともできない。すると事故もありえるかもしれない。なにより、あなたの共演者があなたに全力でぶつかってきますか?」


「……。」


亜弓は答えられない。


「亜弓さん、あえて厳しい言葉で伝えますね。紅天女はあなただけのものではないですよ。あなたの想いで共演者を振り回してはいけない。」


「わ、わたくしは、ちゃんとやれます。見えている時以上にやります。」


「ええ。それはあなたの性格から、そして、実力からは十分わかります。しかし、それに周りがついてこれますか?そこでどんな紅天女が生み出されますか?」


「……。」


「そしてなにより、なにより大切なことは、亜弓さん、あなたの見るチカラです。あなたが見るチカラを失うことは、日本の芸能界にとって大きな損失です。あなたが紅天女に賭ける気持ちは痛いほど伝わります。しかし、この1か月。降ってわいた1か月。あなた自身のために使ってみましょうよ。」


「な、な、なにをおっしゃっているのかしら、速水社長?わからなくってよ、わたくし。」


「治療しましょう。それだけです。治療から逃げないでください。亜弓さん。」


「そうよ、亜弓。これはあなたの目の力を失ってはいけないという何か見えないチカラが働いているのよ。だから、思い切って治療しましょう。」


「嫌、嫌。その間にもマヤはじりじりと紅天女に近づいていく。あの子はそういう子よ。だからわたくしには余裕もないし、時間もないのよ。」


「月影先生からも治療に専念するように、そして、そのあいだも亜弓さんが阿古夜になれるはずでしょう、っておっしゃってます。」


「えっ、なんですって?」


驚きに顔がゆがんだ亜弓にお構いなしに続ける真澄の顔は冷静沈着だ。


「差し出がましいことかとは思いましたが、山岸理事長とも協議しました。もちろん、そこからは誰にも知られていません。誰からの情報で私が亜弓さんの目のことを知ったか、その詮索は今はやめましょう。それは置いておいて、月影さんからも、二人の阿古夜候補は1か月マスコミからも、誰からも消えてもらうようにとご了解をいただき、大都で手筈を整えました。北島マヤは東京から離れたところで、限られた人間とだけ関わるようにして1か月過ごしてもらいます。亜弓さんも同じです。大都が総力をあげてあなたの治療を応援します。通院されていた病院は日本では最高峰です。そこで手術を受け、そして、静養はその病院ではないところでしていただきます。その手配も整ってます。亜弓さん、あなたはまず自身で見るチカラを取り戻しましょう。今、見えないところからまた見えるようになる過程。そこに必ずあなたの阿古夜があるはずです。あ、これは月影さんの受け売りですがね。」


「あの子は?マヤはどうするの?それを伺ってよいかしら?いや、あ、マヤはわたくしの目のことは知っているの?マヤは御稽古するのでしょう?」


「いえ、北島マヤは亜弓さんの目のことはまだ知りません。亜弓さんが先日握手をなさらなかったことも、あなたの気高い、紅天女への意識からだと捉えているでしょう。彼女は人のこころを深読みはしない。だから知りません。そして、1か月、桜小路くんとは会う機会をもたずに、沖縄ですごしてもらうつもりです。阿古夜と一真は触れ合わないでひと月すごします。これは月影さんから北島マヤへの指示という形をとりますので、彼女は受け入れるでしょう。そろそろ、月影さんから直接連絡を入れている頃だと思います。」


「沖縄…?」


「はい。オンディーヌの沖縄版を大都が作る計画があるのです。もう小さい形で始動しています。ただ、オンディーヌもいろいろね…。ですので、ちがう方向性と名前で進めるつもりですが、そこで、事務や下働きをやってもらうつもりです。その点も月影さんには了承を得ています。月影さんも、その日常にあの子の阿古夜が生きる何かがあるだろうっておっしゃってました。」


「日常に…。」


「はい。ですから、亜弓さん。あとはこの速水に任せて、今日はこのまま病院に行ってください。すぐに術前検査、そして、早ければ明日手術ができます。そして、これは言うまでもないでしょう、あなたが一番ご存知でしょうが、今のあなたの状態からの手術で、成功しても、3年後まで視力を保つことができるか、その予後は決して芳しいとは言えないようです。フィフティ・フィフティで」


話している真澄を手で止めるしぐさをして亜弓が


「ええ。その通りです。3年後に視力が正常にキープできる可能性は、5割は無いとうかがっています。だから、今のこの瞬間に賭けたのです。おそろしい情報収集能力だと感服いたしますわ。もうわたくしが抗うことは許されないようですね。」


「はい。ご理解が早く、ありがたいです。」


「わかりました。ママ、身の回りの必要なものをばあやに連絡すること、そして、手術後の話は、ママと速水社長でつめていただいてよろしいかしら?わたくしはこの足で病院に向かいます。逃げたりしないので、大丈夫です。あ、万が一のために、変装して、ハミルさんと一緒に病院に行くわ。あと15分でこちらに迎えにきていただくことになっているから。ええ、腹を決めます。共演者の方とのハーモニーがなければならないと、わたくしも思います。その点だけは自信がありませんでした。さすが速水社長だわ。」


「亜弓…。亜弓、そうよ、5割なくても、可能性はあるのだから。そして、月影先生のおっしゃるとおりよ。あなたの阿古夜を感じていきましょう。」

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