「うん、やっと戦える土台が固まったな。北島。」
ちょっとだけ口角をあげてマヤは黒沼の呼びかけに答えた。黒沼は方向を変えて、
「一真、迷っていて愛せる相手じゃないぞ。阿古夜は。わかってるだろ?」
桜小路は下を向く。口が少しゆがんだことをマヤは見逃さなかった。それでも何かできるわけでもない。今、イルカのペンダントを返すわけにもいかない。何も言えない。阿古夜は一真だけを見ているのに。
すると黒沼が突然大きな声を出した。
「はあ?どういうことだよ?それは決定なのか?みんな納得してるのかい?仕方ないってことか。俺が声を荒げても仕方ないってことですよね。わかりましたよ。次の連絡待ってますからねっ。」
振り返っていつも以上に大きな声で吐き捨てるように黒沼は言った。
「延期だってよ。来週の舞台稽古は延期。当然、最終決定も延期らしい。スケジュールし直して、連絡がまたくるそうだ。モチベーション保つしかないけれど、やるせない。ざけんなよな。」
「どういうことですか?」
まっ先に声をあげたのは桜小路だった。
「シアターXでボヤがあったらしく、舞台稽古に使えないらしい。今、使うのは危険だそうだ。修復するか、あるいは別の場所にするか。それを含めて、舞台稽古も試演もリスケジュールだそうだ。おおむね1か月の延期を考えてほしいとのことだ。」
「1か月…。」
「協会の言い方は本当に事務的だよな。延期にかかる費用は負担しますから、って。それだけじゃないだろうよっ。そもそもボヤだと?ふざけるな。」
「1か月あれば、僕の足も治ります。僕は恵みの1か月だと感じましたが…。」
と振り向きながらマヤの様子をうかがう。
「え、え、えっと。何が起こっているかわかりませんが、1か月長く阿古夜でいられるってことですよね。そういうことですよね。」
「北島ぁ。お前はホントにうまくテンポを乱してくれるな。ははは。褒めてるんだよ。おーい、みんなも聞こえた通りだ。他の仕事の都合もあるだろうけれど、1か月余分にかかるぞ。調整しておいてくれ。ここにいる誰ひとり欠けても、黒沼の紅天女は出来ないからな。いいなー。たのむぞー。」
平良はバーでお金を受け取らなかった。いや、正確に言うと、小野寺はお金を用意していなかった。急に、成功報酬だからと言い張ったのだ。そのまま何もしないで帰るのが良いと思ったけれど、小野寺の一言が気になっていた。
「亜弓さんが時間が必要なんだよね。」
「姫川さんが?でも姫川さんはいつも正々堂々としていて、時間が必要だなんて、そんなハンパなことは言わないでしょ?」
「それはそうだな。あの頑固娘はそうだね。いや、ここだけの話だし、俺が払う報酬よりももっと良いネタとして芸能誌が買ってくれる内容だよ。どうだ。俺が払う金よりもそのほうがずっと実入りがいいぞ。ただし、すぐにばらしてはダメだ。」
「は?そうやって、引っ張ってタダ働きさせる気ですか?もう俺、帰ります。」
「待てよ。言うのは今言うから。亜弓さん、今もうほとんど失明だぞ。あれじゃ、女優生命終わりだよ。手術今しなければ間に合わない。それがあるから延期したいんだよ。俺は。亜弓さんの為なんだ。1か月あれば、手術も間に合うだろうな。リハビリまで考えると3か月は欲しいが、あのお嬢様のことだから、他の人の半分の期間でリハビリも終えるだろうし。負けず嫌いでエラそうだからな。誰にも言うなよ。」
「姫川さんがそんな大変なことになっている…。」
「おい、裕、お前もお嬢様のファンだっただろ、オンディーヌにいた時。困ってるんだよ、その彼女が。お前がこれからやることは、彼女を助けることになるんだよ。わかるか?それに金がいるか?」
「……。」
「だから派手にやってほしいんだよ。ボヤ出して。足場もないようにすればいい。たき火を数か所でやるって考えればいいんだよ。わかるな。」
「姫川さん、目のこと公表していないでしょう?」
「鈍いな、お前、相変わらず。だから、芸能誌に売れるって言ってるんだよ。ボヤの後、1か月空いたら、お嬢様はスケジュール空白にする。これは間違いない。その時に、いや実は目があって、それを押してまで試演に賭けて、っていう美談になる。空白のスケジュールをスクープってことだ。」
「姫川さん、それを希望しているんですか?とても…。」
「魚心あれば水心だろう。何も言わなくても視力失うのは今後の女優人生にプラスなはずないだろう?」
「……。」
「だから、裕、お前がシアターXを使えなくして、それで、そのままお前はしばらく俺とも連絡せずに、俺も連絡しないし、無事、試演が延期になれば、そのころにしゃらっと姫川亜弓に近い人物という触れ込みで情報売ればいいだろう?おい、変に自首やら考えるなよ。お嬢さんに迷惑かかるからな。わかったな。」
姫川さんがそんなこと望むはずもない。しかし、視力を失うとなれば、まずはそれを避けなければならない。姫川さんと同じ場所で演劇をやれたのは俺の唯一の誇り。彼女はこれからも輝き続ける女優だ。でも、先生の言うようにすると、絶対に、姫川さんが疑われる。俺がそれに気づかないと思っている。先生はやっぱり俺を紙屑同然に扱っている。やはりここは縁の切りどころだ。もう、先生とは二度と関わらないようにしよう。俺もきっぱり元芸能人ということを捨てよう。その区切りにしよう。
翌朝のスポーツ新聞には間に合わなかったが、夕刊紙にははっきりと記事が出た。シアターXで火事。紅天女のスケジュールは後ろにずれ込むと協会も発表と書いてある。良く見てみたけれど、本当に見えないのならばあんな場所で試演をするのは危険だ。危険だから良くないと自分に言い聞かせながら手を下した。姫川さんの目の事は俺は何もできることはない。だから芸能誌にも情報は売らない。でも俺はこのまま黙っているつもりはない。
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シアターXの場所矛盾についてはこちらを
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